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わたしのストーリー  2009~

③生きる勇気(40代/13年)

[がん経験者(女性)] 投稿日時:2009/08/21(金) 22:28

立場:がん経験者(女性)

がん告知時:??

主治療後経過年:13年

 
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私が卵巣がん告知を受けたのは、
5月ゴールデンウィークのはじめでした。
地元近くの病院で、子宮内膜症との誤診で、
3ヶ月無駄な治療を受けた後、

卵巣に何かある

と言われて手術を勧められた私はその時点で転院を決めました。
友人が手を尽くして差がしてくれた転院先はとても混んでいて、
検査もひと月後の予約になりましたが、
身体の衰弱が厳しくなってきていた私が、思いあまって電話したとき、
偶然キャンセルがあって検査を受けられることになりました。
後になってからわかったことですが、
甲状腺機能亢進症を起こしていて、かなり重篤な状態だったのです。
 
検査の後、やはり手術ということになりました。

このとき、下の娘は小学3年生でした。
仕事を休んでいた私の元へただいまと言って帰ってきたとき、
このことを話すと、娘はランドセルを放り出して泣きました。
もちろん、がんということも、病気の内容もわかってはいなかったと思います。
告知後、中学生だった長女には病名を告げましたが、
受け止めることができず、つらい思いをしたようです。

卵巣がんの場合、開腹手術してみなければ確定診断が出ないことが多いです。
一度目の手術の後、
細胞診を待って告知、
その後、3クールの抗がん剤治療を受けて、
当時は一般的だったセカンドルックを受けました。
 
その後、また点滴による抗がん剤治療を2回受けた後、
ようやく退院、

半年間に及ぶ入院生活で、
このときはもう主治医に次元を超えた恋をしていたかもしれません(^-^)

退院後は、一年ほど経口抗がん剤を服用して、その後経過観察に入りました。

発病から、13年のときが流れます。
この間、私はとてもたくさんの仲間を見送りました。

 
多分、今の私があるのは、
かけがえのない友人たちを見送ったことが根底にあると思います。
いつもいつも、みんなで元気になりたいと願って歩いてきましたが、
そんな私から、仲間がひとりふたりと旅立っていきました。
いっぱいに生きていた友人たちが、私に伝えてくれた生きる勇気を
どこかにつなげていきたいという思いで、ネットの世界を開きました。
 

リレーフォーライフとも、ネットのつながりで出会いました。
昨年は北海道in室蘭の実行委員をさせていただきましたが、
正直、とても大変で、途中、何度か悔やみました。
でも、終了したときに得たものは、私の大きな財産になりました。
やって良かった。今はそう思っています。
 
今年は参加者として、リレーフォーライフを楽しみたいと思っています♪
 

②お父さんもそう思ってきた(家族)

[家族・恋人・友人・同僚等] 投稿日時:2009/08/15(土) 23:05

立場:家族


             


2007年9月、私の父は直腸ガンのため手術をしました。
夕飯が終わり、父がテレビを消して、穏やかな声で私にこう言いました。

「ガンだって。」

その言葉を聞いたとき、私の目の前が真っ暗になりました。
ガン=死を連想したからです。

しかし、私の頭のスイッチはすぐに切り替わっていました。
私は父に対してこう言いました。
「大丈夫だよ、きっと治るから。」
父は、私のその言葉が嬉しかったらしく、
「○○(←私の名前)が大丈夫と言うなら、お父さんもそう思ってきた。」
と言ってくれました。
 

それから、手術日が決定してからの数週間、
私はできる限りの情報をネットや本で調べていました。
父が病気になった時、ガンという病気になったことよりも、
娘として何一つ父に親孝行が出来なかったことが
一番悲しく思っていました。
 
手術の日、手術室に向かう父を見送るとき、
最後に振り向いて家族の方に手を振った父を見ながら、
まるでこれが最後の別れになるような気持ちになり、
涙が出そうになりました。5時間に及ぶ手術が終わり、
父の顔を見てほっとして家族皆で泣きました。
 

その後、合併症を起こしたことにより長期入院になり、
退院後は静脈血栓で緊急入院になり、
2007年の9月~12月は家族にとっても試練の毎日でした
2008年1月から再発予防を目的とした抗がん剤を
4クールしました。
 

現在は経過観察で術後2年経過し、体調も良いようです。
あの当時を振り返り、いつも思うのは
主治医や入院中に献身な看護をしてくださった看護師さんの存在です。
医療は医師の技術だけではなく、
トータルなケアを必要とされています。父はそのすべてが整った環境で治療を受けられた
ことに、感謝の気持ちでいっぱいです。
 

①俺は負けない!そしてあなたも負けない。(20代/5年)

[がん経験者(男性)] 投稿日時:2009/08/15(土) 14:12

立場:がん経験者(男性)

がん告知時:20代後半

主治療後経過年:5年

 

               

リレー・フォー・ライフ実行委員のガン遍歴


ある「事件」が俺を襲った。。それは、突然のことだった。

俺は28歳で「癌」になった。。
当初は、驚きと恐怖が襲ってきたが、早期発見のため手術だけで済んだ。
それから、再発の不安はあったが、体調が戻るにつれ、不安も消え去っていた。


その矢先だった・・・・。
1年後、術後跡の痛みがあり、主治医のもとに診察してもらった。


「残念ながら、再発です。」


どこか遠くで聞こえているようだった。

ただ、自分でも驚くほど冷静だった。
なぜだろう?

おそらく29年だったが、悔いのないように
生活していただったろうか?
自分なりに、やりたいことはやったと思っていた。

けど、時間が経つにつれて、その冷静さは失われていった。この先の恐怖、家族のこと、友人こと
会社のこと、、、、いろんなことが頭をよぎった・・・。

そして、ある程度の覚悟をした。


「やれるだけやってみよう。まだ死ぬわけにはいかない。希望をもって、やれるだけやってみよう」
そう思った。

そして、いよいよ抗がん剤治療が始まった。
全身の血液中が悲鳴をあげるほどの「劇薬」が体内に送り込まれた。言いようのない倦怠感
吐き気、、、。生きてるようで、生きていない感覚。。
けど、この気持ち悪さが「癌」を退治しているのだと我慢した。
頭の毛は抜け、それは出家している「修行僧」のようだった。。。

そう、俺は修行に出てるんだ
そう自分に言い聞かせた。

5日間、24時間の点滴治療を行い、2週間の回復期間をおき、それを3クール繰り返した。
その間中、家族は毎日きてくれた。友人もたくさんきてくれた。


それを見て、俺は思った。

「絶対に生きてやる!」

この病気で失うものはあるかもしれない。けど、失うものが多いほど、得るものも大きかった。

俺の生き様を残してやる!

そう強く思った。

約3ヶ月の入院生活。最後の検査。
「腫瘍は全て消えましたよ」
主治医の言葉。。俺は、心で叫んだ。

「勝ったぜ!」

人間が最大の恐怖である病気に勝った・・・。
それは、
今後の人生に大きな影響を与えるだろう。

いや、この経験は必ず生かさなければいけない!
そう強く感じた。

退院して1週間。退院後の検査での異常なし。徐々に体調は回復していた。

いまだに「再発に不安」は確かにある。ときどき怖くなったりもする。
けど、いまはそれが俺の本来の姿。
すべてを受入れ、どう対処していくか、考えていこう。

人間は、そう簡単には死なない!

そう感じつつも、死へのイメージが拭いきれない。
誰もが死へ向かっている。どう死ぬか?が今後の俺のテーマだと思う。
あまり、細かい事は気にしないで思いっきりやればいいと思ったりもする。

「無駄に生きるな!熱く死ね!」

この言葉が俺のテーマだ。
何事にも恐れない強靭な精神力をつけよう!
強靭な精神力とは今日、明日では備わらない。
時間と経験が必要だ!
そうすれば、強靭な精神力が備わるはず!絶対に備わる!

そんなときに、NHKのテレビで「働き盛りのガン」の特集をやっていた。
リレー・フォー・ライフ主催者のシュウさんが出ていた。そこで、同じような不安を抱えて
いることを知った。
そして、日本でリレー・フォー・ライフを行うことを検討していると語っていた。
俺は、すぐにシュウさんにメールをした。
「何かお手伝いできることはないですか?」

ガンによって、不安だらけの生活で、自分と同じような人が、何かを起こそうとがんばっている。

ガンは一人ではない。そう、みんなで戦っていくんだ。
その考えに共感し、日本初のつくばから、リレー・フォー・ライフを見てきている。
俺は、その都度思った。

「俺は負けない!そして、あなたも負けない」

ガンで余命宣告されている人や、遺族や家族、友人。ガンに関わる人が1つの気持ちに
なって、乗り越えようとしている。
その気持ちこ
そが、このリレー・フォー・ライフ
なのだと思う。
そう感じている今日この頃である。
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<俺の病気履歴>
2003年12月10日・・・睾丸の異変に気づき、近くの「泌尿器科」を受診。インターネットで
情報収集し、「爆笑問題」の田中もなったことである「精巣腫瘍」(睾丸ガン)だとうすうす
感じていたが、泌尿器科の先生にも「悪性腫瘍」である疑いがあるので、大学病院へ行くこと
を勧められる。先生の紹介で、聖M病院か、K東労災、S大学Y市北部病院の3つを紹介され
「施設は綺麗で看護婦さん若いよ」の一言で、S大学Y市北部病院に決定。

12月10日は母親の誕生日。実家に「母さん、誕生日おめでとう。。。あ、あと俺、、
ガンになっちゃった」の報告。。。人生最悪の誕生日だったようだ。。(母)

12月12日、大学病院へ受診。案の定「精巣腫瘍」と宣告。緊急手術のため入院。

12月13日、朝9時、手術開始。

12月14日から、転移がないか調べられ、、

セミノーマのステージⅠ。転移はなし。予後のため、抗がん剤治療も考えられるが、
まだ未婚であるし、若いので「経過観察」で行くことに決定。
それから、毎月定期検査にかよう。。

2004年の4月頃は、季節の変わり目もあるが、「再発の恐怖」や諸々で精神的に
参ってる状態。。ちょっと情緒不安定時期・・。

2004年10月。体調も少しずつ回復し、気力もあがってきた。。いい感じ。

2004年11月。会社の野球にも参加できるくらい回復。。しかし、左足ソケイ部(術後跡)
に痛みを覚え、病院へ。

2004年11月8日。「リンパ節に転移性の腫瘍が3cmあり、抗がん剤の治療が必要」と宣告。
但し、通常の再発は痛みを伴わないので、再度精密検査。
やはり、転移性腫瘍のため、抗がん剤治療を。
その際、
抗がん剤の治療で「精子が死んでしまう」ことを言われる。ようするに男性不妊。
しかし、冷凍保存の方法をしり、「アモルクリニック」へ精子保存へ。。
治療内容は、精巣腫瘍の標準的な治療法。
BEP療法
 処方例
 シスプラチン20mg/体表面積1m2あたり静注第1~5日
 エトポシド(ラステット)100mg/体表面積1m2あたり静注第1~5日
 ブレオマイシン30mg静注第2、9、16日
 これを4週間ごとに3クール
1クールごとに、MRIとCTで腫瘍の大きさをチェック。1クール目から効き目が出て、この方法で行うことを選択。

2005年2月1日。約3ヶ月の入院生活から退院。
3クール目の時には、腫瘍の残骸らしきものがMRIに映っていたが、1ヶ月経過観察することに。大きくなってたら、外科手術で取り除くと。。。
1ヵ月後。検査結果で腫瘍は縮小してるので、このまま経過観察。

2009年8月。すごぶる健康!5年たったので、完治宣言!!


患者、家族、医療者などそれぞれの立場でのストーリー

投稿日時:2009/08/15(土) 14:07

今年の新横浜の大テーマ「ふれあい、そして語り合い

 WEB上でも、ちょっとお知らせします。

このページをごらんいただき、ブログ記事にコメントを入れてくださるのも歓迎

投稿してくださるのも大歓迎です。

がん経験者、家族、医療者などさまざまな立場でのストーリーをお待ちしています。

 

続きは、会場で

 

※投稿くださる方はごめんどうですが、HPトップからメールにてご連絡くださいませ

 

コメント


がんばってください!

Posted by ぱふゅ at 2009/03/25 10:06:00+09 PASS:

ぱふゅさん
ありがとうございます。レスが遅くなりすみませーん。
ぼちぼち新情報をアップしていきますので、期待して下さいね。
ヨロシクお願いします!

Posted by Sumito at 2009/04/10 13:10:58+09 PASS:
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